http://www.nhk.or.jp/kokokoza/library/radio/r2_genbun/archive/genbun_05_06.pdf小説の原文はこちら、NHKの教材です。

「私」という「自分」という作品を読んでいろいろ考えてしまいました。

作者の主張は、哲学でいう4つのイドラが真実であると主張してることにならないか?林檎が赤いと相互認証したって間違ってることは世間には多い。
極端な場合、カルト教団内での真実は世間の真実ではないが、信者間では真実であり作者流にいえばカルトの相互承認こそ事実であり世間は虚構になる。
たとえ相手のことを理解できなくても(企業の競争など不確定情報下での相手の行動予測)などは、相手を理解できてなくても、作者の言う架空の虚構の存在であっても現実の結果という形で影響を受けるので作者の言う虚構のほうを現実だと認めるほうが現実的ではないか。
熱心なナチス集会で、自分ひとりヒトラーを胡散臭いと思って心にとどめても周りが聞いてくれなければ虚構になる。その考えを世界で考えてるのが自分一人しかいない世界になっても大事なはずだ。作者流にいえば世界に一人だけになればこれも虚構となるのだろうか?
同じ事実も受け取る人によって違う。相手と自分の相互承認が同じだと信じてて、結局すれ違ってることも多い。本当に相互認証などできるのか?
法律のように虚構を含んでても相互確認が大事な話と、相互確認しても物理的事実を勘違いして認識してはその相互確認は虚構にすぎなくなり現実というしっぺ返しを食らう。
しかし物理的事実ですらそもそも完璧な認識などあるのか?という疑問もありますね。
そういうことを考えてしまいました。幼稚ですね私。